昼も夜もない。
空には北斗七星が輝き、太陽はさんさんと光を注ぐ。
森は豊かで、人が家畜と暮らし、その土地の権力者であった証として多くの武具が並べられたそこは、古墳の中。
いつも登山のことばかりなので、今回はもう一つの趣味の古代史について。
さてさて、装飾古墳って知ってるかい?
おいおい、どーせ古墳だろ?
とか簡単に決めつけるでない!決めつけるでないぞー!!
これはもはや、古代人の芸術。
日本では古墳時代の書物は一切残っていない。
国内最古の書物は聖徳太子の物で7世紀と言われているからね。
だから、紙に描かれた絵画なんて物も皆無。
唯一残された物が、壁画。それも保存状態の良い古墳の中でしか見ることができない。
古墳の内部に装飾が施された装飾古墳は、古墳時代の後期に建造され(西暦500年前半)、全国に600基近くあるうちの半分以上の340基が九州で見つかっている。
今回はそんな装飾古墳の魅力を知る旅どえす。
まず一発目は、福岡県嘉穂郡桂川町にある王塚古墳(おうづかこふん)にやってきた。
6世紀前半に建造された装飾古墳の代表格。
今年もGW中の山岳事故の多さに心を痛める一方で、一切登山には出かけず、さんざん古墳巡りをしてきたので、今回はその雑記どえす。
王塚古墳 本編
まずは王塚古墳の場所
王塚古墳はご覧の通り前方後円墳。
前方部は民家が建てられてしまい、全体像は残っていない。
そして、古墳時代後期ならではの横穴式石室という造りになってるでやんす。
ここ嘉穂郡には沖出古墳なんかもあって(ここも以前訪問済み)、御覧の通りズラリと古墳が立ち並ぶ古墳銀座。
ちょっと狭いエリアの地図だからGoogleマップで嘉穂郡の位置も含めて分かり易くマークしてみた。
よけい分かりにくくなった…。
Googleマップで王塚古墳をマークしてから、う~んやっぱ大宰府や奴国、伊都国の位置関係も分かるようにしようと赤い円を付けてみたら、そっちの方が目立ってしまい、王塚古墳が探せない。
しかも、ついでに大好きな英彦山にも赤マルを付けちゃったもんだからさらに分かりにくい。
まあとにかく、太宰府〜筑紫野市が歴史的に重要なエリアなのは言うまでもなく、春日市の辺りにあったとされる奴国(なこく)、そして福岡市西区〜糸島にあったとされる伊都国(いとこく)も超重要。
これらの国々は弥生時代から海外交易の中心地だった。
大陸からの来訪者は必ず伊都国へ立ち寄らなくてはならず、魏志倭人伝によると邪馬台国はそこから奴国を通って筑紫野の方へ進んだと思われる。
伊都国の平原遺跡が卑弥呼の墓だったとしても、やはり邪馬台国は吉野ヶ里や筑紫野あたりだったんじゃないかなぁ〜と妄想が膨らむ。
邪馬台国の話をしだすと、話がどんどん違う方にいってしまうからここでやめておくけど、日本の歴史史上最大のミステリーなのは間違いない。
さて、話は戻すけど、筑紫野〜太宰府周辺は古墳以外にも白村江の戦いの後、大陸から唐と新羅連合が攻めてくることに備えた大野城や基肄城も築造されている。
ちなみに基肄城は基山の登山で軽く触れてるので、興味あればそれを見てくだされ。
王塚装飾古墳館
博物館に寄ってから古墳を見ないと、ただの盛り土を眺めるだけで終わっちゃうから、まずは王塚装飾古墳館へ。
有料で大人330円(2023年時点)。
嬉しいことに、馬埴輪のデザインがされたしおりのプレゼント付き。
前方後円墳と太陽で形どられたカレンダー。
発想が100点満点。
いざ、中へ。
古さは感じるものの、さすが有料の博物館だけあってとても清潔で、展示の仕方もスッキリしてて好印象。
なにより、どう見せたら分かりやすいかをよく考えた配置なのがブラボー。
他の博物館は、雑然と郷土史を並べただけの、ひどいところも多いんでね。
まずは弥生人の暮らしぶり。犬も飼って、家畜と暮らしている様子。
まあここら辺はいいとして。
ほいっ。まずこいつ、鏡。神獣鏡。
割られていないし、状態の良さに驚くわー。
王塚古墳は盗掘の被害を受けなかったため副葬品が数多く発見できたというのも特徴。
乗馬するみたいにまたがりたい欲求にかられる。
いかんいかん、いいおっさんがすることではない。
石室の中へ
いよいよ、王塚古墳の内部を再現したレプリカの中へ。
前室からいきなり装飾が施されてて、芸術性の高さに圧倒される。
いやいや、ちょっと戻って、装飾のデザインを改めて確認しておこう。
ふむふむ。
では、メインの石室の中へ
ふあっ!(鼻血ぶしゃー!)
天井には星!
壁には太陽をモチーフにしたであろう同心円文や幾何学模様がびっしり!
まさに豪華絢爛。
古墳巡りをそこそこしている方なら驚かれること間違いないだろうけど、そうでない人にもこのデザイン性の高さは分かるはず。
天井石には北斗七星が(たぶん)!
三角紋と呼ばれる幾何学模様と、下段にずらっと並んだ靫(ゆぎ)。
靫とは、矢を入れて背負う武具ね。
そして、ひときわ目を引くのが騎馬像とわらび手紋。
よーく見れば騎馬像の金具までしっかり描かれているし、騎馬と人の大きさの違いから、どれだけ馬を大事にしていたかが分かる。
サザエさんのエンディングに出てくる一軒家みたいだけど、盾。
全国の装飾紋様には6色確認されている。
1基の古墳で、たいたい3色ぐらい使われてるところが多いんだけど、ここ王塚古墳はなんと5色も使われてるというのがウリ。
装飾古墳で見かける不思議な紋様を紹介してくれている。左下の鳥の顔みたいな絵は、熊本のチブサン古墳の装飾で、女性の乳を描いている。
ちなみにチブサン古墳の隣にあるオブサン古墳は、まりこふんさんが、日本のおすすめの古墳3選としてテレビでマツコさんに紹介してたから知ってる人も多いはず。
これも王塚古墳ならではの、双脚輪状文。
宝飾、女性の飾りをイメージしているという説があるみたいだけど、正確なことは誰にも分からない。
自分は花に見える。
雄しべと雌しべがでてる様に見えるし、豊かな土地を表現したいのでは。
これも王塚古墳ならでは、わらび手文。
勝手に森や草のイメージだと思っている。
だから当然、山もあって良いと思うんだけど無いね。
山には神様がいると昔から信じられてたとはずなんだけどー。
これは同心円文。
大きく描けば太陽を、小さければ星を描いていると勝手に思っている。
この古代人の芸術センス、どんな思いでこの絵を死者に手向けたか、とてもミステリアスだ。
三角文と、真ん中に温泉マーク。
ええ、靫(ゆぎ)です。
岩に描いた装飾を付着させ長持ちさせるための接着剤は、エゴマ、ニカワ、ウルシが使われたと考えられている。
エゴマなんてこの時代からあったのか。
装飾古墳の命でえる、それぞれの色で使われたとされる石の紹介もされている。
王塚古墳が他の古墳に比べいかに多くの色が使われたかが分かる。
五郎山古墳は4色、チブサン古墳は3色。
道の駅うすいのよくばりうどん
博物館だけで満足してしまったから、途中だけど、一旦近くにある「道の駅うすい」へ。
なんと!ここのうどん屋さん「めん蔵」は限定20食で、なんと海鮮丼が1,000円で食べられちゃうんだよ!
開店と同時に行くべし!!
海鮮丼~どんどんどんどん
海鮮丼〜♫
間に合わなかったぜぇ…。
しかーし、よく見よ!!
このよくばりうどんもウマイチモツ!!
肉、ごぼ天、たまご、ワカメがもりもり入って650円。
コスパ最強かよ!!
つか、麺が独特。博多風のやわ麺の様に見えて、実はもっちもちで美味い。
実は海鮮丼は、沖出古墳のときに一回食べてるから今回はうどんでよかったよ。
ちなみに、イカの活き造り定食は呼子スタイルで刺し身を食べた後にゲソを天ぷらにしてくれて、たしか2,000円ぐらいだったはず。シンジラレヘン。
とてもお得なのは分かっちゃいたけど、今日はそんなお金を使う予定ではなかったので、うどんが正解だった。
アイス芋なる新たなスウィーツもあって惹かれたけど、王道の唐揚げを買った。
ちなみに、ここの道の駅では珍しい白木牧場の特別牛乳が売られている。
特別牛乳は日本全国で4箇所にだけ認められ、加熱処理せずに搾りたての牛乳を無殺菌で飲めるというもの。白木牧場のは一応安全のため低温殺菌処理をしてるみたいだけどね。
ぜひお試しあれ。
ええ、もちろんここでも余計な出費を抑えるために買わなかったけど!
王塚古墳を散策
腹ごしらえをしたら、再び王塚古墳に戻って実際に古墳を散策。
年に2回一般公開があるみたいだけど、非公開のこの日は外観を楽しむのみ。
石室の説明もしっかり書かれてる。
灯明台石が設置されてるのが珍しい。
天井石には花崗岩が使われているけど、細かい加工が必要な灯明台石や石枕にら阿蘇の溶岩が固まってできた凝灰岩が使用されているという説明。凝灰岩は石人山古墳の石人と同じ材質。
そして最後に「穂波の君」とみてよいでしょうと締めくくられている。
無論、鈴木保奈美のことではない。かんち!
古墳から何が眺められるかというのが重要。
馬見山や古処山を見渡せる好立地だ。
ここでも、博物館でも我が国を代表する装飾古墳です!と力説してる通り、素晴らしいものであるけど、前方部は削り取られ痛々しい。
もう少し早く保存整備が始まっていればと悔やまれるわー。
後円部は実にきれい。
王塚古墳は6世紀前半の古墳だから、磐井の乱が起こった頃のもの。
大和朝廷の支配が強まり、百済と同盟して新羅や高句麗と戦うために朝鮮に派兵していた時代。
横穴式石室だから後円部に入り口がある。
ええ、公開日ではないんでね。
ご覧の通り、厳重に守られて入ることはできないんだけど、扉に石室の文様が描かれてて、なかなか芸が細かい。
王塚古墳、こんどは公開日に再訪だな。
死者が自分の隆盛を描かせたわけではなく、残されたものがその人物がいかに立派だったかを知らしめたいから装飾を施したんだと、勝手に想像している。
東京の青山墓地を歩いてみてほしい。墓石には「正二位」とか「中将」とか「陸軍大将」とか、当時の官位が刻まれた墓石がたくさん立ち並んでいるけど、それらを見ていると、死んでまで肩書を残そうなんて、まず本人は望まなかっただろうなぁと思えてくる。
きっと遺族や周囲の関係者、恩を受けた方々が私財をなげうって立派な墓を立てたんだろうね。
だから、この王塚古墳に埋葬された穂波の君は、きっと人間的にもとても尊敬される人物だったんだと思う(そう思いたい)。
さて、邪馬台国はどこにあったのか、そして卑弥呼はだれなのか。
これだけ有名なのに何一つ分かっていない、この国内最大のミステリーに興味を持つだけの素人の古代史好きのおっさんが、その前後の歴史を知っておきたくていろいろ古墳や遺跡を巡っている。
さて、次は五郎山古墳へ。