マゴにも衣装って、孫だと思ってる人いるでしょ?
馬子だから!!
はい、
今回も装飾古墳巡りです。
おいおいまだ古墳巡ってんのかよ、そんな声が聞こえてきそうだ。
事実、閲覧数は極めて少ない。でも気にしない。好きで書いてるんだもん。もんもん。
念のために言っておくけど、決して内臓脂肪を燃やすための登山を諦めたわけではない。
もっと言えば、北アルプス白馬大池のテン場がまさかの4千円に値上がりして、登山が嫌いになった訳では無い。
いや、正直言えば、この値上げにはかなり嫌気がさした。
だけど、先日ムツゴロウさんが熊をフルボッコするYouTubeを見て少し気が紛れた(笑)
別に登山をやめたわけじゃないけど、家庭菜園や古代史とかマラソンとかいろいろやってる中で、今回は古墳巡りを集中してアップしてるってだけ。
そんなわけでやって来たのは、岩戸山古墳。
福岡県八女市にある八女古墳群の中心的古墳で、古代日本で最大の乱と言われる「磐井の乱」を起こした磐井氏の墓で、九州北部最大級の前方後円墳。
磐井の乱を知ってる方なら、ここで「おお〜!」と狂喜乱舞してしまうところだけど、まあそんな方は少数派でしょう。
そして、この古墳で特筆すべきは、「石人」!
この石人(せきじん)と、ムツゴロウさんのフルボッコ動画は必ず見るべし。
八女古墳群 本編
岩戸山古墳いわいの郷へ
内臓脂肪を溜め込んでやって来たのは「岩戸山歴史文化交流館いわいの郷」。
まず古墳を見る前に、ここで岩戸山古墳の歴史背景を学んでおきたい。
館内は清掃が行き届いててピカピカ。
建物自体が新しいし、それに広い。
ちなみに、岩戸山古墳はこの博物館の裏側にある。
受付を済ませたら、説明用のタブレットを貸してくれるという、無料で入れる博物館でありながら最上級のおもてなしに嬉し泣きが止まらなかった。
ついにやってきた岩戸山古墳で、最初のパネル紹介が南北朝時代における九州を舞台にした戦地紹介というイケズ対応に一気に興ざめ。
針摺原の戦いとか、マジどうでもええがな。
古代史ばかり追いかけてると、西暦1,300年頃の歴史なんてつい先日のことに思えて、さっぱり興味が湧かない。
さあ、ようやく己の興味ある時代へ突入。
まず、真ん中の鏡に注目してほしい。
これは決して、ナビスコオレオではない。
こんな小さいけど立派な方格規矩鏡なのだ。
細かく刻まれた紋様が精緻すぎてますますオレオに似てくる一品。
そしてオレオの右隣には鉄戈(てっか)。
大和朝廷が百済と交易する一方で、磐井の国は独自ルートで新羅とも交易を続けていたらしいから、とても国は豊かで鉄製品も豊富だったんだろうね。
シアターでは磐井の乱をアニメで学べる。
ミジンコ脳のおっさんにはこういう分かり易いのが有り難い。
磐井の乱が起こったのは西暦527年。
大和朝廷の同盟国だった百済の敵国である高句麗・新羅に対抗すべく、大和朝廷から筑紫の国を統治する磐井に朝鮮へ派兵するように命令がくだされる。
磐井はそれに反発し、さらに朝鮮へと出兵する朝廷の軍の行く手を妨害。
筑紫の国の豪族たちがそれに呼応し、大和朝廷と対立が深まる。
大和朝廷は物部麁鹿火(もののべのあらかひ)を将軍にして鎮圧に乗り出すという古代史における最大の乱が巻き起こった。それが「磐井の乱」。
日本書紀には、ごくごく簡単に磐井は討ち取られたと書いてあるみたいだけど、筑後国風土記には、磐井は山へ逃げ、息子の葛子(くずこ)は筑紫の国から糟屋郡を大和朝廷へ献上し、死罪を免れたと書かれてあるそうだ。
磐井の乱のちょっと前の出来事として、高句麗と百済の戦が激化したことによって、日本と中国を結ぶ玄界灘の航路は遮断され、有明海から中国への航路が重要になったことで、磐井は巨大豪族に成長した。
なるほど、見えてきた。
磐井は百済だけでなく、新羅とも独自に交易していたのだから、そもそも大和朝廷の出兵命令には反対の立場だった。
大和朝廷が百済と組んで、万が一新羅・高句麗との戦に敗れて弱体化するようなことがあれば、磐井が大和朝廷に代わって国をおさめる存在になってたかもしれない。
その一方で、大和朝廷と百済が戦争に勝った場合、百済との交易が盛んになって磐井は今よりもっと儲かって、さらに力をつけることになる。
どっちに転んでも貿易の拠点を統治していた磐井が力をつけるという構図は、大和朝廷にとって面白くなかったはず。
つまり、大和朝廷と磐井の間では貿易の権利主張のもつれが存在していたと思われ、お互いいつか叩き潰しておかねばならないという感じだったのかもね。
さて、そんなことをイメージしながらさらに奥へ進むと、石人がお出迎え。
間違いない。
テルマエで言うところの、平たい顔族だ。
当時の朝鮮は、高句麗、新羅、百済、伽耶諸国(かやしょこく)に分かれていた。
伽耶諸国というのはいくつかの小さな国が集まった地域で、日本はここに領土を持って百済と同盟していたんだけど、そこに新羅が攻めてきたから、九州で徴発した兵士を次々に派兵していたということらしい。
ちなみに、朝鮮が統一国家になるのはまだまだずーっと先の話。高麗の時代。
度重なる、九州に課せられる徴兵。
そしていよいよ交易によって力をつけてきた磐井を中心に豪族達が立ち上がり、古代史上最大の内乱、磐井の乱が勃発する。
大和朝廷としても、これを機会に磐井を伐ち、支配力を強めたかったはず。
さっきも書いたけど磐井は敗れ、息子の葛子は領土の一部、現在の糟屋を差し出し、大和朝廷は直轄地とする。
そこに地方豪族を見張る目的で造られたのが屯倉(みやけ)。
屯倉は糟屋の他にも次々と設置されていき、大和朝廷の支配力が強まっていった。
これが設置された屯倉の場所。
北九州に睨みを効かせつつ、何気に交易の拠点をしっかり抑えた配置になっている。
話は変わる。
殯(もがり)とは、古来の日本の葬儀の方法で、死者を埋葬するまでの間、仮安置することを言うらしい。
現代でも埋葬するまでの間、お通夜を済ませたりするのも殯(もがり)みたいなものだけど、古代はなんと2週間も遺骸をそのままにしておくんだってー、オエェ〜。
遺骸はウジが覆い、そのウジが石室の中でサナギとなって痕跡が残ってるんだと。
オエッ。
石人石馬は九州に集中している。
加工のしやすい凝灰岩が阿蘇の噴火でたくさん取れたというのも影響してるだろうし、加工する職人も多く育ったんだろうね。
これはすごいよ、本物の古墳時代の鎧だ。
これまでレプリカしか見たことなかったから初めて見た。
しかし、あろうことか鎧の右胸の辺りに受付で借りたタブレットが反射して映るという初歩的ミスに脱糞。
6世紀の古墳の中から出土された垂飾付耳飾。
こんな精緻なものは当時の日本では作れなかったから、これは中国か朝鮮から輸入したもの。
悲しいけど、当時の日本はやっと国の形ができ始めたばかりで法律もない。ちなみに十七条憲法ができるのは604年。
この頃はまだ文字すらなかったという説もあるけど、文字がなかったら海外との交易はできなかっただろうから実際にはあった。
出土される鏡にも文字が刻まれているんだからね。
書物は意図的に消去されて残っていないだけで、文字でのやり取りはあったのは確実。
どこの誰が意図的に隠したのか…。
岩戸山古墳
歴史を学んだ後は、岩戸山歴史文化交流館いわいの郷の裏にある岩戸山古墳を見に行こう。
古墳巡りは軽い登山だ。
前方後円墳なんだけど、ただの山だと思われてしまったのか古墳の上には上宮が建てられている。
岩戸山大神宮。
後方円の頂上に石碑が建ってて、奥に延びるトレイルは前方後円墳の前方部。
ここに書いてるけど、全国的にも造営者と年代が分かる貴重な古墳。
別区の石人石馬
岩戸山古墳のお隣には「別区」という広場があるのがとても特徴的。
ここは祭儀の場所であり、裁判の場所でもあった。
裁判がどのように進められたか、どんな刑罰があったかなど詳しいことは分からない。
しかし分かっているのは、陪審員たけでなく、石人も睨みを効かしていたということ。
こんな風に。
吹き出してしまうじゃないか。
裁かれる側と、裁く側、その真剣勝負の場でこの石人たちが居並ぶ光景で、笑わずにいるなんて不可能。
爆!!!!
まあ、でもほんと。もし磐井が朝廷に勝っていたら、今の日本はだいぶ違ってただろうね。鎖国せず貿易大国になってたかもしれないし、物部氏や蘇我氏の豪族とのもっと大きな内乱が起こってたかもしれないし。
ちなみに、「馬子にも衣装」は蘇我馬子のことではないぞ。
さて、これで終わりかと思いきや、そうではなかった。
なんと、帰り際にいわいの郷の職員の方から、
「もしかして古墳好きの方ですか?古墳が好きそうな方を見かけたら石人山古墳(せきじんさん)にもぜひ行ってみて下さいってお勧めしてるんです」
と、突然のアドバイス。
石人山古墳資料館
そしてやって来たここは「石人山古墳資料館」。
しかし、すでに自分のミジンコ脳は岩戸山古墳だけでキャパオーバーを迎えていた。
予定外の石人山古墳の参戦。もはやわんこ古墳状態。
ここは恥をしのんで、蓋閉めて「ストップ!」と宣言すればよかったと、後悔しながら館内へ。
ちなみに、岩戸山古墳からここまでは車で6分、3.6kmの距離。
男は疲れた脳に鞭を打ち、「どりゃーー!」という掛け声とともに、必死に読み進めようとするも、まず最初に出てきたのは石人山古墳ではなく、弘化谷古墳(こうかだに)についての説明書きで出鼻をくじかれる。
ふえっ!!
しかしまさかの弘化谷古墳のレプリカ展示が素敵!
これは完全にリサーチ不足だった。
弘化谷古墳装飾がこれほどまで独特だったとは。真ん中の円はメロンを横にしたような文様だけど双脚輪状文ぽくもあり、実に目を引く。
天井の三角文様もずいぶん印象的で、何を表現したかったのか、古代の謎とミステリーに満ちた空間だ。
石人山古墳資料館の全体像はこんな感じ。
「しっかり見ておかないと恐らくここには一生来ることはないぞ!」と、意味不明な強迫観念により己を追い込み、わんこ古墳を堪能し続ける。
頭をリフレッシュさせたいから、猛烈に熱いコーヒーが飲みたい。
この文様は直弧文(ちょっこもん)とよぶらしい。
恐らくくまモンはチョッコモンの二番煎じなんだな。
自分でも分かっている。実に中身のないことを書いているということを。
しかし、つまらない親父ギャグこそが自分を突き動かす原動力。少しずつアホな血が体内をめぐり生気を取り戻してきているのを感じる。
石人山古墳は5世紀前半に造られた八女古墳群の中で最古の古墳。
ふむふむ。ミジンコ脳が新たなことを吸収し、すかさず岩戸山古墳のことを忘れていく。
石人山古墳にはもともとたくさんの石人がいたのか。
さきほど見た別区に並ぶ石人が思い起こされる。
そう、あれもレプリカだった。
一体どこに持ち去られてしまったのか。よくある大学の研究者たちによる公然の窃盗が行われたのだろうか。
これは本物なのかな。よく残ってたな。
酸性の土で骨までぜんぶ溶けてしまうのがほとんどだからね。
細かい装飾がされた剣。
こんな色の濃い装飾が残っているはすがないから、きっとこれもレプリカだろう。
それにしても星や人物が雑だな。
ん?
「博多華丸大吉模写」って書いてある(笑)
それを知ると華丸さんうまい!と言いたくなるわ。
よく描けてる!
石人山古墳の石人さん
さあ、おっさんにのうのうと体を休めているヒマはないのだ。
博物館を後にして、すかさず石人山古墳にやってきた。
今いるここは前方後円墳の頂上部分で、前方部から後方の円に向かって歩いているところ。
ほんとだ。石人さんが一体しかない!
まあ、約1,800年経った今でも本物の石人さんがここに立っているということが奇跡なのだ。
石人さん、あんたは幸せ者だよ、他の石人さんたちは東京の国立博物館とかに移設されて、みんな散り散りさ。
家型石棺だ!
本物もしっかり見学できるようにしてくれてるのね、偉いぞ八女市。乾杯!
家型石棺に刻まれた直弧文が、立体的に浮き出ているのもよーく分かるし、当時の職人たちの技術の高さにただただ驚き。
家形に加工する技術と装飾の技工、これが5世紀前半に造られたとはねぇ、、
でもさ、家型にする理由ってなんだったんだろう。
そもそも古墳を造る予定はなかったのかもね。
弘化谷古墳にも行ってみた
石人山古墳を堪能したあとは歩いて10分ほどの距離にある弘化谷古墳へ。
もう脳みそが疲れたと悲鳴をあげているというのに、もの好きにもほどがある。
来てみたのはいいけど、中の見学はできない。
無念…。
さすがに今日は遊び尽くした感があるんだけど、
実は今日のメインディッシュはこの後に残されている。
古墳ヤロウに休息なんて許されないのだ。
この後、チブサン古墳で内部の見学会の予約を入れてある。
そんなハードスケジュールだと言うのに、石人山古墳だけでなく弘化谷古墳にまで足を伸ばしてしまった己の行為がさっぱり理解できないが、普段から登山ばかりで古墳巡りを疎かにしてきたおっさんに与えられた時間は少ないのだ。
古墳が呼んでいる。卑弥呼が呼んでいる。この原動力は古代史の魅力を知ってしまったのだから仕方がない。
そして繰り返すが、弘化谷古墳の中は見学できない。。ふっ。
弘化谷古墳は6世紀中ごろの古墳。装飾古墳はやはり6世紀に集中している。
そんな説明書きを走り読みして、急いで車へと引き返した。
ちなみに、石人山古墳資料館で古墳カードをゲット!!
五郎山古墳ではもらえなかった無念は、ムツゴロウさんのフルボッコ画像の再生で癒やされた。見るべし!
長かったけど、これにて八女古墳群を巡る旅、終わり。
お次はいよいよ古墳界のレジェンド、チブサン古墳へ